ようやく秋が来たと思ったらもうすでに冬が待ちかねているようなこの頃です。以前、わたくし吉田はひたすら夏が終わって欲しいと書き連ねたブログを投稿しました。季節はメリーゴーラウンドとはいいながら、あの永遠に続くかと思われた夏が終わったことが何となく信じられません。狐につままれたような心地で過ごしています。
とはいえ秋が来たからには寝ぼけてばかりもいられませんから、なんとしてもこの短い儚い秋を存分に楽しまねばなりません。秋と言えば、清少納言が夕暮れを褒め称えています。西山に沈む夕日を見れば、すぐさま京の都の歴史に思いをはせることが出来るというわけです。少し大仰ですがかえって俗っぽい楽しみ方だと思っています。憎き太平洋高気圧が去ったが故に、蒸し返す空気と蝉の鳴き声がなくなったが故に、我々は足を止めてのんびり夕日など眺めることができるわけです。秋は夏が去ってしまった喪失感と、冬が迫る寂しさによって魅力的ですが、夕暮れの儚さがそれに重なって一層綺麗なのでしょう。でなければ太平洋高気圧打倒の達成感によってでしょうか。
秋と言えばまた、朝、玄関の扉を開けて吸い込む空気が好きです。丁度心地よく冷たくて、1日頑張ろうという気になります。そして現代人的には、秋は金木犀であると言わねばなりません。金木犀という植物は、江戸時代にようやく日本に入ってきたものだそうです。ということはつまり、必然的に、我々は清少納言が味わえなかった香りを楽しんでいるということです。田中宮市営住宅にはこの金木犀の生け垣が存在しています。それも私の部屋からほど近い自転車置き場のすぐ前です。扉を開ける時に一度、そして自転車置き場で一度、この素敵な香りを胸一杯に取り込むことができるのです。少なくともこの数週間の私の快調は、涼しい空気と金木犀に支えられると言っても過言ではないでしょう。食欲とか読書とかスポーツとか芸術とか、日本人は秋に多くを仮託しすぎるきらいがありますが、さもありなん。
3L的には、秋を迎えて、今シーズン初めての鍋会があったりしました。私怨について少し書かせていただくことをお詫びしますが、鍋には楽しくない話があります。去年まで私は片道2時間半、距離にして約70Kmを通学していました。家族で鍋をする日、当然寒くなるにつれてこのような日は増えるわけですが、そのような日は往々にして、私一人夜遅くに帰宅して冷たくなった余りの鍋を静かな部屋に箸が器に当たる音だけを聞きながら食べることになるのです。一人鍋の寂しさたるや無上、いや無下というべきでしょうか。寂しさが秋の魅力だとかつい五、六百字前に書いた気がしますが、我が身一つの秋にはあらぬのであればこの寂しさを一人で味わう訳にはいきません。ビリージョエルもそう言っています。つまるところ、皆で食べる鍋は良いものです。豊かです。この鍋だけでも住んでいて良かったと思います。
次に私が書く頃にはいよいよコートを着る季節でしょうか。着々と、衣替えと3L内覧に向けた部屋のおめかしが進んでおります。
回を追う毎に好き勝手に書くようになってきた感がなくもないですが、ここまで読んで頂きありがとうございました。